「推し」についての試論、或いは如何にして私はコンテンツを享受してきたか

ラジオを聴いている時にこんな言葉を耳にした。

「推しっていう単語が分からない。」

要するに、「推し」というのは、自分自身が何らかの宣伝活動や所謂「布教」に能動的にコミットしている場合に「推し」ている対象を指す言葉であって、たんに好きなアイドルや声優などを指して用いるのには、違和感があるというのである。私にも「推し」がいて、ラジオやアニメ、ゲームなどで、日々その活躍を眺めている。ここでは、「推し」という言葉をどういうつもりで使っているのか、自分なりの考えを思いつくままに述べてみよう。

まずどういうときに「推し」という言葉を用いるのか。あくまで自分なりの使い方になるが、他人に自分の「推し」コンテンツに関する話題を出すときに用いるような気がする。これだけでは話が発散してしまうので例を挙げる。

私の「推し」は藤田茜さんである。(毎週木曜日19:00にインターネットラジオステーション音泉にて『鷲崎健藤田茜のグレパラジオ(P)』、隔週金曜日19:00に同局にて『藤田茜シーズン2』が配信中である。とさりげなく宣伝をしておく。)出演する作品や番組があれば、ほとんど全てチェックする程度には好きである。たった今「好き」という言葉を使ったが、これは便宜上のものである。人に話す際には「〜程度には推している」という言葉遣いをするであろう。この抵抗感が一つである。すなわち、

  • 直接的な言葉遣いをするのに抵抗があるために「推し」という言葉を用いる

のが楽である。「追っかけ」や「ファン」のようにある意味で合言葉のようになっているものは、個人の感情が前に出ず使いやすいように感じる。

その「推している」芸能人やコンテンツに触れると気分が高揚するが、自分一人では気持ちを持て余す。「推しが尊くて辛い」現象である。持て余した感情は他人と共有するなりしてクールダウンせざるを得ない。ここで注意しておきたいのが、昂った感情を表に出してしまうのは、そのコンテンツを布教せずにはいられないというものとは別であるということである。共有したいのはあくまで感情であって、そのコンテンツに登場するキャラクターや舞台といった詳細を知ってもらいたい訳ではないのである。もちろんそういう場合があることを否定するものではないが、その場合にも次に挙げるような「推し」の使い方には当てはまると思われる。

コンテンツに触れて昂った感情を他者と共有するのにいきなり「〇〇って声優さんがいてね」とは切り出しにくい。どこの事務所に所属していて、どんな作品に出演していて、等々バックグラウンドの説明で相手はもはやうんざりであろう。(ちなみに藤田茜さんは賢プロダクション所属、『エロマンガ先生』和泉紗霧役、『精霊幻想記』セリア=クレール役などでお馴染みである。上記のラジオも大変面白い。)その点「推しがね」の一言ですめばこの上なく便利である。相手も普段からその手のコンテンツに触れているような人であれば、いっそう話が早い。「推しが尊い」の感情は界隈で共通であるから、好きなコンテンツをお互い共有しない人同士では、コンテンツや芸能人の名前を出すまでもなく「推し」の一単語で済ませてしまばよいのであって、感情の共有はそれで済む。藤田茜さんの例の場合も一々名前を出すことはせず、「昨日、推しの生放送があって、相変わらず可愛かったー。興奮し過ぎてあまり寝れなかったんだよね。」のような会話で済ますことが多い。つまり

  • 何かのコンテンツが好きで、それを摂取するという一連の行為には、界隈の中である程度共通性があって、そのレールに沿った話をする上では名前を出す必要がなくて「推し」の一単語で済むため便利

なのである。

冒頭の言葉に対する自分なりの考えは以上のようなものである。

「推し」という単語は、好きという感情と他人に推しているかという行為との差異を無視して、自分の触れているコンテンツを、名前を出さずに話題にするための方便として広く用いられているというのがまとめになるだろうか。